どちらにしろ、涼木魁流の機嫌を損ねてしまった事には間違いない。
本来なら英語の教科書を見ていなければならない視線が、部屋の宙を彷徨う。ツバサからの電話を切ってからも、さっぱり集中できない。
はぁ、せっかく連絡先くらいは聞けたかもしれないのに。
落胆する自分を不思議に思う。
どうして自分は、涼木魁流などを追いかけてしまったのだろうか? ツバサが会いたがっているから? だが、そんな事は自分には関係の無い事ではないか。
断熱素材をふんだんに使用している高級マンションの室内は、エアコンを切ってもそれほどすぐには寒くはならない。安いボロアパートとは天地の差だ。床暖房も完備されているようだが、電気代が恐ろしくてまだ使ったことはない。
光熱費も瑠駆真の親が負担しているようだ。美鶴としては、なんとなく申し訳ないような恥ずかしいような気もする。それくらいはこちらが払うべきだと母には主張したが、貰える好意は素直に受け取るべきだと言い返された。そのくらい図太くなければ、世の中は渡ってはいけないのだとか。
そんな図々しい人間になってまで世渡り上手になりたいとは思わないと言ったら、鼻で笑われた。そういう言葉は、世の中の厳しさを知らない甘ったれが口にするものだ、と。
シャーペンを放り投げ、ゴロンとベッドに仰向けになる。
なんで、涼木魁流に声など掛けてしまったのだろう? ツバサの力になりたいなんて思っているのだろうか?
なぜ?
琵琶湖を見下ろしながら、自分は醜いと自虐したツバサ。そんな彼女を、美鶴は少しだけ羨ましいと思った。
変なの。
寝返りを打つ。
変なの。どうしてツバサのお兄さんになんて声を掛けてしまったんだろう? どうしてツバサが探していると告げたりしたのだろう? どうして背を向ける涼木魁流に食い下がったのだろう?
どうして里奈と聡を会わせたがるツバサに、協力なんてしようとしているんだろう?
疑問が溢れる。
変な自分。全然、自分には関係のない事ばかりなのに。
考えれば考えるほど疲れる。
霞流さんの事だって考えなきゃならないのに。あ、あと進路。
途端、全身が憂鬱に包まれる。
里奈は自分の進路を考え始めている。じゃあ自分の進路は?
進路指導で担任から渡された一枚の紙っぺら。自分が進むべき大学が列記された薄っぺらな紙きれ。
考える事がいっぱいで、疲れちゃう。
瞳を閉じて右の腕で両目を覆った。途端、暖かな室内が、美鶴を微睡みへと誘う。
あぁ、私、何やってるんだろう?
ため息をつくその身体を、睡魔がゆったりと包み出した。
「いい加減に起きたらぁ?」
間の抜けた声で起こされる。
あれ? 私。
いつ眠ったのかも覚えていない。
えっと、ツバサと電話してて、切った後にいろいろ考えてて。
ぼんやりとする頭で思い返す。
そういえば、ツバサにはお兄さんの事は結局言えなくって、でも確か約束をしたような。あぁ、聡に里奈の事を頼んでみるんだっけ? えっと、学校に居る間はどうせ聡と会話する機会なんてないだろうから、言うとしたらやっぱり駅舎か。あ、でも瑠駆真が居るとまた厄介な事になりそうだしなぁ。でも学校では聡の取り巻きがウロついてるから。
そこでパチリと目を見開く。
学校?
勢い良く起き上がる。
え? あれ? 私。
混乱する頭で周囲を見渡す。寝室の扉は中途半端に開かれ、隣のリビングからテレビの音が流れてくる。
そうだ、私、お母さんの声で起こされて。って、お母さん?
詩織はいつも帰りが遅い。美鶴が寝てしまった丑三つ時か、もしくは陽が天高く昇ってから。
仕事が終わってすぐに帰ってくれば深夜で、起きると母は自分の寝室でぐっすりと寝込んでいる。美鶴はそのイビキを背に受けて家を出る。仕事帰りに同僚と飲みに出たり後輩の部屋に寄ったりすると、そのまま朝まで居候という事態になる。この場合は昼近くまで帰ってはこない。だから美鶴は無人の部屋を出て行く事になる。
どちらにしても、母の詩織が美鶴を起こす事はない。だが今、美鶴は確かに母の間抜けな声に起こされた。これはいったいどういう事なのか?
まだ深夜? だが寝室のカーテンを通して陽が差し込む。
ひょっとして、もうお昼近くとか?
ガバリと身を起こし、机上のデジタル時計を手にとる。針が指すのは六時五十五分。携帯を探すが、慌てているからか、見つからない。寝室を飛び出す。リビングの壁掛け時計が差すのは、七時五分前。
七時?
大音量が放出されているテレビの画面の左上には、午前六時五十五分の文字。
午前七時前。よかった、寝坊じゃない。
ホッと胸を撫で下ろす美鶴の背後からあくび交じりの声が掛かる。
「何ボサッと突っ立ってんのよ。邪魔よ」
言うなり背中を押しのけ、コーヒーと菓子袋を手にした母が通り過ぎる。ドッカリとソファーの中央に身を沈める。
「顔くらい洗ってきたら?」
リモコンを操作しては芸能ニュースをチェックする母。その声に、半ば放心状態のまま洗面所へと向った。
ボサボサの髪の毛にお湯を掛け、そのまま顔も洗った。たっぷりの湯から立ち上る湯気に目を瞬かせていると、だんだんと目も覚めてくる。
朝、なんだよね?
タオルで顔を拭きながらリビングへ戻ると、母が菓子を頬張りながらキッチンを指差す。
「コーヒーあるよぉ」
振り返る先にはコップに半分ほど入ったコーヒーと、その横に菓子パン。
いつからこうしているのだろう? 勢い良く温風を吐き出すエアコンのお陰で、部屋はポカポカ。
「昨日後輩にもらったの。アンパンは好きじゃないから食べていいよぉ」
どれもこれも間の抜けた眠そうな声。いかにも母らしい声を聞きながら、それでもどことなく落ち着かない気持ちで一度部屋へ戻り、制服に着替えた。
だってさ、どう考えたっておかしいよ。
身姿を整え、キッチンの椅子に腰をおろす。すっかり冷めてしまったあまり美味しくもないコーヒーを一口飲んでから、母を振り返った。
「ねぇ、どうしたの?」
「なにが?」
「いつ帰ってきたのよ」
「えぇ? わかんない。いつも通りよ」
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